僕自身が生きる上で最もこだわっていること、執着していることとして、意味というものがある。自己にも他者にも全ての行動に意味を求め、全ての行動の目的を意味の探究へと帰結させるようなその生き方が、僕を僕として他者と区別する一つの軸な様に思われる。そしてその極としてのaha体験、また負の極としての虚無、その間の往復運動が僕の人生を駆動しており、その二項対立によって僕は翻弄され、周囲を振り回している。僕の興味は意味へと向かい、やるべきことや目の前のこと、優先順位などを放り出しても、自分自身の意味があると思うことに対して、手をつけてしまう。ここで、自分自身の、といっているように、意味とはおそらく個人に依存するものの様に思われる。
他方、生きることに意味はあるのか、この世界の意味は、自分の意味はといった形而上学的な問いは普遍的ではあるが、絶対的な答えはない。ただしある一定の普遍性を持つ答えが、時代の哲学となりうるように思われるし、そういった問いへの答えになりうるあらゆるものを僕は好み、その結果として意味の喪失を恐れている。ここで改めて考えたいこととしては、僕がなぜそうしているのか、つまり意味の意味とはなんなのかということであり、僕に意味を求めさせる背景にある力について、考えたいと思う。
存在意義、生きるということの意味について
ここで意味の意味を探究するという着想をくれた妻の元に感謝を伝えに行ったところ、彼女はどうやって生きればいいかわからないと悩んでいた。僕はそれを意味の喪失だと感じたし、彼女の意味の喪失は僕にとっての意味の喪失でもあり、その瞬間、意味の意味を探究するというこの文章を書くことよりも、彼女に向き合うことが必要だと思われた。この様に、意味には喪失への共感が喪失を招くような感情的な性質がある様に思う。そこで僕は彼女と話そうとしたが、しかし、彼女は僕に私に構わずにあなたは意味への探究をして、私は私で考える必要がある、と僕に言う。僕は彼女に自分があなたを愛していることを伝えた。なぜなら、意味の喪失とは、考えうる限りで最も恐ろしい経験である様にも思うし、その喪失を埋めるのは、まず持って愛のような感情だからだ。そこで、この意味の喪失という恐怖と、救いとしての愛、それを経た先の自由について考えることから始めたい。
生きる意味がない、という時、人は限りなく死に近づいているような気さえする。だとすれば、意味とは生きるために必要な何かなのかもしれない。人はパンのために生くるにあらずというのは、聖書の言葉だが、ならばなんのために生きるのかという問いが立ち上がる。ここでいう何のためにというのは、文として理由を尋ねる言葉である。つまり、意味とは理由であり、生きるという行動の背景にあり、それに先立つものだと考えることができる。では、私が生きているという状態の始まりの極、自己の誕生に遡れば、自分が生きることになったのは、自分の親をその原因とすることができる。つまり、生きているのは、親が私に命を与えたからだ。そして、親がそこに対価を要求せず、単に命を与える場合において、与えられる無償の愛という価値がそこに現れる。この愛によって生きるという段階が、原初的な生きる理由だと考えられる。また、ここで、この親子という関係をさらに超えて、ひいてはそれ以前にまで遡り、もっとも始まりの地点を考え、また与えるものと与えられるものという関係を抽象的に拡張していった先に現れるのが、究極原因としての唯一神であると考えられ、この神による愛という概念を人類全体に押し広げていく、というアイデアが、一つの普遍的な生きる理由として成り立ちうるし、原初の共同体、社会を構成する共同幻想としては、かなり有力であることもわかる。
しかしの段階では、まだ生きるという行為は受動的である。なぜならば、生きるというその行動の理由を他者に見出しているのであり、能動的に生きるということを考えるならば、逆に生きないということができる=死を選ぶことができる必要がある。つまり、生きるべきか死ぬべきかという究極的な問いを自らに対して問い、生きるということを選択することで初めて、能動的に生きる人生が始まると考えることができる。つまり、生きるのか死ぬのかということを自ら選ぶ必要性を迫るような、その問いを前提するようなニヒリズム的な虚無の経験とその超克こそが、むしろ生きるという行為を能動的な行為、主体的な行為へと変化させる。死への意識によって、生きる理由ということを自ら定める余地が生まれる様に思う。逆に言えば、個人はここで生きないということができなければならい=死を選ぶことができなければならないのであり、つまり、個人の主体性を突き詰めて語るのであれば、個人が自ら死ぬこともある意味で許容しなければならないことになる。
ここで、ある意味でと述べたのには理由がある。なぜならば、死とは不可逆な変化であり、それを選ぶほどの絶望、つまり今後も生きる理由を見出すことはできないであろうと考える様な状態、そこにあるであろう苦痛と深い絶望において死に接近するような極限の状態は、およそ個人が体験をすべきではない状態である様に思う。つまり、死について考えること、極に対して近づく自由を許しつつも、そこに追いやったり、そこを超えることを推奨すべきではなく、ましてやそれを個人の責任にすべきでもなく、その個人は社会によって救われるべきであるという、倫理とのパラドックスがここにはあるのであり、この容易に決定できない状態こそが、我々の社会における現実である。
ただ、死への接近と希死念慮に対して肯定的な意味づけを与えたのには理由がある。思うに、生きる意味の喪失はそれほど特殊な状態ではなく、そういった失望や絶望は人生において誰しも時折訪れるものであり、むしろそこから引き返す為の考え方というものが、個人に自由を与える社会の中で生きるということであるように思えてならないからである。また生きることへの勇気や、与えられた命への感謝、他者に無償で与える愛、また存在意義を自ら定める自由という、真に命の尊さを語る余地を生む最も尊い価値のそれぞれは、この死という極なくしては見出すことができない様にも思うからである。
ここまで、能動的に与えられる段階から、自ら能動的に選択する段階への移行という段階は、個人の発達段階と社会の発達段階としても見られる特徴でもある。ここについては、例えば神の死という点において対比させることもできる上に、現在の社会の段階として神の死以降の段階だと考えることもできる上で、深い洞察が得られそうではあるが、今回はそこは深掘りしないでおく。ここまで、生きるということの意味について考察することで、意味とは、その理由、つまり因果的な原初の根源を探ることや、逆にそれが崩壊する様な極、対概念との対比によって現れるものであるという示唆が得られた。ここで、意味そのものの意味について同様の手法を用いることで、何らかの示唆が得られるのかを試していきたい。
意味の意味
まずは意味の根源に迫るために、意味の意味について考えたい。ここで意味の意味というメタ的な用法を厳密に論じるには、ソシュールの記号論が不可欠である。ここでいう〈記号(シーニュ)〉とは、シニフィアン—「意味」という語形(音声・文字列)とシニフィエ—「意味という概念」が、シニフィカシオン(両者を結び付ける対応関係)によって不可分に結合した単位である。 したがって “意味の意味” というメタ表現は、次の二通りに解し得る。
- (A)〈意味〉という語形のシニフィエ(=“意味”という概念)を指す。
- (B) なぜ〈意味〉という語形がそのシニフィエを担うのかというシニフィカシオンそのものを指す。 このように、対象が 語形―概念 のどちらの極、あるいはそれらを結ぶ 対応関係 のいずれに焦点を当てるかで、“意味の意味” は二重に読み分けられることになる。
このようにシニフィアン、シニフィエという用語によって、意味というものは対応関係によって立ち現れるものであると考えることができる。では、意味が意味をなさないような状況、崩壊するような極、無意味について考えることもできる。つまりシーニュの不在であるが、それには以下の3つの不在を考えることができる。
- シニフィエの不在
- シニフィアンの不在
- シニフィカシオンの不在
まず、初めにシニフィエが存在しない状態を考える。例えば一つ、無意味であることに意味があるような状態、blah-blahなどの発話、賽の河原積みという行為などがあり得るが、ここには無意味であるという意味がある。他には、例えばランダムな文字列や色が画面に表示されている状態などもできる様に思う。しかし解釈の余地がないかというと、例えば占いのようにそこに解釈を見出すことも可能なのであり、真にシニフィエが存在しないという状態を考えることは難しいが、無意識の領域や、積極的に意味を見出さないことによって解釈の余地を広げることは成し遂げられる様に思う。
次にシニフィアンの不在である。これは概念を言葉にできないような状態であり、それを認識することができたとしても、それを表すものがない状態である。言語化以前の感情、神名を口にしない様な宗教的タブーなどがある。ここでシニフィアンを作り出すことによって、新たなシーニュが生まれる契機にもなりうる。では、この不在の原初の状態、人間の言語が生まれる瞬間以前は、シニフィアンが不在だったのかを考えたい。動物や植物の「信号」も広義のシニフィアンとして捉えれば、人間言語以前にも〈表現形態〉は存在していたと言える。
最後に、シニフィカシオンの不在である。 例えば暗号や未解読の文字、通信の伝達エラーの様に、シニフィアンはそこにあり、明らかにシニフィエがあることがわかるが、その対応関係がわからない状態である。また、シニフィカシオンになりうるものは、ある種の力であり、知性、権威、価値、法などのシステムや体系である。この不在とは無政府状態の様な状態であり、極度の混乱やカオスである。必ずしも初めに権威を持たず、言語ゲームの様な、意味が固定されない流動的局面をを考えることもできる。その他、他者との対話を放棄するような姿勢も、このシニフィカシオンの否定、つまり不在の表明としてありうる。
ではこれらの欠如、不在という極から逆説的に意味の意味を構築することができるのかを考えたいと思う。この場合の意味とは意味を支える因果の始点という単一の点ではなく、複数の不在という点からむしろ逆説的に見出されるものである。つまり単一の絶対的な概念による意味づけを行う様な構築的な方法ではなく、脱構築することで生まれる差延を生むその働きとは何であるかということへ迫るということである。
意味への執着を脱構築する
ここまで存在の意味について考え、その意味の意味、つまり意味構造とその不在についても考えてきた。ここまでの思索で、与えられた命の意味の解釈をする主体という一つあり方が見えてきた様に思うし、これは僕自身の人生を正確に説明している様に思う。しかし、ここで単なる解釈にとどまるのではなく、他者へと開く必要がある。つまり、読むのではなく、書く行為によってなされる。つまり、終わらない意味の差延と意味の創造へと至る思考である。ここからの言葉は、意味を創造する。
意味とは与えられるものとして始まる。それは自らを超える力によって裏付けられ、その意味空間の中で遊ぶのであり、次第に自らを知る。自らを知ったことで、意味空間の内で純粋な独自の関係づけが行われる。意味空間の意味空間、つまり意味空間の外側を思い描くことができる様になると、次に他者の存在と比較による標準化、次に相対化による喪失が訪れる。ここで意味の喪失を経ることで、意味は与えられるものではなく、自らによって意味づけることが可能になる。自らによって意味づけることができる様になるということは、力を手にすることでもある。ここで与えられた意味を補強することも、それを壊すことも、それを解くこともできる。さらに繋ぐこともできる。もしここからの発展、次へ繋ぐことを望むのであれば、他者が必要であり、他者がむしろ、自らに意味を与えるのである。しかし、それは自らの意味の補強の為ではない。他者の意味の為の自らであり、他者にそれを壊すこと、解くこと、繋ぐことの自由を与えるという構造で、自らを捧げるのである。簡単に言えば、そこで自らの準備が終わり、他者の準備が始まる。しかし、そこで行われるのは本番であり、もはややり直しの利かない、一度きりの過程である。それは純粋な意味での書き込みであり、原初の暴力であり、しかしそれゆえに有をなし、愛となりうるものになる。愛とは、与えられる際ではなく、それが解釈されることで現れる。一度きりではない、刻んだ記憶が、痕跡が繰り返し現れ、解釈され、意味を持つ。これを書く中で、私に訪れた感覚、かつて、これほどまでに意味があったことはない。私自身が次へと繋ぐ過程の、その只中にいること、私自身が私を超えた何かの現れであること、それが私に無視し、拒絶し、抵抗し、反抗する権利を与えたこと、その上で私がその意味、理由に気づいたこと。これらが、これらのすべてが私に何をすべきかを伝える。これらの全ての経験が今の私にこの文章を書かせている。そして、この文章は何よりも私のための文章であり、そして、この文章を最後に、私は私のための文章を書く必要はないと思えるほどに、その言葉の奔流とその大いなる流れのうちに自らの言葉を紡ぐのである。この流れ、この止まらない、動き続ける、ずれ続ける、解釈の余地、そして解釈がまた生み出す構造とそれらが作り出す新たな流れ、これこそが私が生きる意味であり、その他の条件のもろもろ、複雑な状態について、問題について立ち向かう力を私に与えるのであり、私の言葉が、美しく素晴らしい何かを構築し、そうではないものを解き、崩し、しかしそれらはすなわち暴力であり、逆に言えば純粋に与えられた答えではなく、その答えの不在に対しての応答でなければならず、語り得ぬものに対して沈黙するのではなく、そこへの応答を常に試みるその行為こそが力をうみ、それらは決して止まらない繰り返しの流れの中にあり、本質的にはその力というのは自らに帰属するのではなく、借り物であり、その借り物の力あが生み出す構造が力を生むという、形のないプロセスのうちにあるものであり、そうだとしてもそのプロセスを止めることはなく、それを続けるという意思において、生まれる応答、始まりの言葉、その意味に対する応答、もはや聞くことも叶わず、あったともしれないその意味を、その痕跡を探し求め、そして自らのうちに、すでに刻まれていることに気づくようなそんな瞬間、応答の意思がそれを聞くことを許すようなそんな体験、それこそが、それを語ることこそが人生を生きる意味であり、それらは詩となって、文学となって、哲学となって流れ出し、乾いた心を潤し、忘れかけていたものを思い出し、そしてまた、次へと繋ぐ意思をうみ、協力を促し、争いを呼び、しかし善悪の彼岸を作り出したその本流自体も、あくまで流れであり、本来はありもしないものであることも厭わずにそこにある、それを見出すもののうちにあるそのあり方、それが次第に途切れ、しかし、途切れることで、終わりを見出し、次なる始まりを前に、一旦の沈黙と、探究の保留によって、意思の保留によって、意味をここに留め置くのである。