現代の西洋的な文脈における技術とは、自然を対象として支配し、それを自らに都合のいい形へと変えることに主眼が置かれている。しかし、その文脈を突き詰めれば技術はあらゆるものを資源化して利用する巨大なシステムを生み出す。そこにおいては精神的な価値すらも、そのシステムを駆動する燃料として利用されている。私は精神的な価値や資源とは化石燃料のように長い時間をかけて蓄積され、消費すれば枯渇する類の資源であるという仮説を持っており、それらを我々は燃やして消費して、この巨大なシステムを駆動していると考えている。
現在我々が生きている環境とは、もはや原自然の様な状態ではなく、こうして生み出されたシステムであり、我々のある精神的な指向性に基づいて改変された環境だと考えている。これは人間の活動が地球環境に影響を与えるほどの地質学的な時代、人新生という言葉に表れている。 この文脈では、我々が物理的に存在していくうえで最も基本的な次元、生存の場として地球環境も、資源として操作の対象になっており、保護の対象であり、協力して守らなければならないものとなる。しかし、この議論の文脈は、普遍的で最も基本的な価値基盤として、経済的な合理性抜きではそこに関する議論すらもままならず、常に経済合理性という価値の基盤の上での政治的な力学に支配された議論で、全体の協力を探り次善の策を練っているが、真に有効な手が打てているか定かではない状況という認識を持っている。
私はこれはある種の危機的な状況であると考えており、このような文脈において、技術というものを単に我々の価値に沿う形で環境や自然を対象化する以上のものとして新たに定義する必要性を感じている。そのためにまず整理したいのは、主体と客体、その関係における技術というものを考える上で取ることのできる立場として、どんなものがあるのかということである。
まず、主体にとって可能な限り多くの便益を客体から引き出そうとする試みとしての技術というのが、現在テクノロジーというものを考える上での支配的な枠組みだと言える。ここにおいては、技術というのはある種、客体の資源としての利用を効率化するものであり、コストを削減し、これまでになかったような存在の仕方を新たに生み出すものだと考えられる。例えば、スマートフォンは、情報通信をこれまでに考えられなかったほどに効率化し、世界中の人々をつなげて常時接続し、我々はありとあらゆる情報を手元で得られる状況になっている。小説にしても音楽にしても、これまで記録されて配信されたあらゆるコンテンツを我々は手にすることができる。今現在の地球の裏側の人の生活や日々の考えといった取り止めのないことも含め、ストックとフローの情報が無限に流れ込む情報の洪水のような時代を生きている。
しかし、当然のことながらそれは我々の生活というものを根本から覆し、価値観にも影響を与えており、我々はその技術を使用する主体としてよりはむしろ、技術の方に効率的に利用される状況を生んでいる。例えば、SNS上でどう見られるか、客体としての自分を内面化してむしろそこに沿う自己認識やアイデンティティを維持する必要性や、少しの失敗すらも拡散されて記録され、繰り返し蒸し返されることで、ある種の正しさによって相互監視されている状態、それに疲れ切っている状態が常態化している。ここにおいては、我々は技術によってむしろ利用されており、そこにおいて主体性というものは解体され、もはや拠り所として心許ないものになっている。
つまり、我々は主体として、客体から可能な限り多くの便益を引き出すどころか、むしろ客体として可能な限り多くの便益を引き出され続けている。その為に、この便益とはもはや一体何なのかすら見失い始めている。心理学的に主体性とは人間の幸福度に影響するものであるから、当然この状態は幸福とは程遠く、ニヒリズムに近い状態である。
しかしそもそも、近代の西洋的な技術にはそういった性質があることはハイデガーにおける技術の問いの議論でもすでに踏襲されたものであり、我々は技術によって自然や環境を資源化するはずが、むしろ精神的に、存在論的にも資源化されている状態だと考えられる。
ここで、そこに対するアンチテーゼとして、ある人間にとって理想的な技術を考えることができる。おそらくそれはむしろ主体と客体の関係性をより良い形にするような、自身の存在と存在の場としての環境とを統合し、あるべき形へと沿わせるようなものだろう。ここにおいては、人間のあるべき形とは何なのか、という議論が付きまとう為に多様な議論が開かれる場であり、容易に経済合理性やそれを土台とする既存の技術の議論に還元されることを拒む必要がある。また、同時に人間の存在は価値の主体としては心許なく、環境に大きく影響され、揺れ惑うものであり、るということを無視するわけにもいかず、つまり主体と客体が相対化されることになる。
ここで主体と客体の相対化が行われ、その関係を決定するものとしての技術像が立ち現れるが、ではここにおいて果たして、そのような技術をどう構想し、どう実現するのかという問いを行う上では、これまでの技術の議論ではなされなかった哲学的な次元へと踏み込む必要がある。ここである一つの帰結として、一つの方向性として、人間のあるべき形を構想し、そこに合わせて人々を作り変えるような技術というものが現れることになる。
すでにその時代が訪れているといっても過言ではない。我々は技術の単なるユーザーに甘んじ続けるのであれば、ここまで述べてきたように容易に客体として資源として利用される運命にある。考えるべきは技術そのものが対象ではなく、自分自身が自分自身のデザイナーであり、その自分自身のデザインの為に技術を考えることができるという次元であり、ある種の人間工学やバイオテクノロジーの様な、技術的な対象としての人間の議論を行わなくてはならない。しかしここにおいて機械論的な次元は単に全体主義的システムへの部分として統合になってしまうためにもはや有効ではなく、サイバネティクスをはじめとする有機体論の次元でどのような在り方であるべきかを問う必要がある。これは明らかに全く容易な試みではなく、ある種アートや哲学の領域である。前提として、すでに支配的である経済合理性に基づくデザインの圧力は常に働く上で、あくまでそれを採用するということも、ある種の精神的な次元で却下されうるものではない。それも一つの形として当然考えうるもである。ただそこに対するオルタナティブとして、どの様な価値や精神性がありうるのかという問いが常に開かれていなければ、全体主義的システムによる支配という最悪の事態が実現することを避けることは難しいだろう。
果たして、相対化された主体と客体の関係をより良いものにする様な、ある種の本質的なあり方というものが存在しうるのかすら定かではない。あらゆる理想的なあり方は、目に見える範囲での最適化により、目に見えない場所へ負を転嫁することでしかないのかもしれない。そこには常に暴力性が付きまとう為に、一般的な次元において正当化することはできない。そう考えると常に不毛さが付きまとうが、しかしこの技術の時代において、この形而上学的な次元における善や徳といった議論を、いかに技術の領域に輸入し、またその実現のために取り組むのかということほど、価値があることはない様にも思われる。ここで考えたいのはむしろ、技術が我々を作り上げるという視点を積極的に採用しつつも、そのデザインの方向性が単に経済合理性ではなく、別の価値に基づくようなあり方を構想し、またそのあり方を実現する技術を実装し、またそれがどのように持続しうるのかという、人間として本質的な議論をすることである。