映画関心領域を見て、翌日目が覚めてもまだ映画のことが頭を離れなかった。 視覚的に、残虐で刺激的なシーンが描写されたわけではない。 全編を通して、描写されているのは幸福そうな日常的な生活であり、だからこそ印象に残っている。視覚的に残酷なシーンはない。会話や行動の中から、時折垣間見える人を人と思わぬ冷酷さ、残酷さ、欲の醜さ、また音声のみで伝えるアウシュビッツ収容所の実像の演出がとても不気味な映画だった。演出的には、日常的なシーンにサブリミナル的に不穏さを忍ばせてるために、メラビアンの法則において38%である音声情報の中で残酷さを伝え続けるのだと思う。ということで、見終わった後の日常にも、どこか不穏さが忍び、それについて考えて行動を変えないことが、無関心であるかのような気持ちになった。
ハンナ・アーレントは、悪の凡庸さという概念を提唱した。平凡で思考停止状態にある普通の人間が、無自覚に巨大な悪に加担するという現象を指している。しかし、この映画で描かれたルドルフ・ヘスやヘートヴィヒ・ヘスへ決して無自覚や思考停止などではなかった。ルドルフはパーティの席で、どうやったら効率的に虐殺ができるかを考えてしまうほどに彼の”仕事”に熱中していたし、ヘートヴィヒは気に入らないことがあった際に、召使としているユダヤ人に対して、お前を夫に頼んで灰にして庭に巻いてやろうかなどと脅迫をしている。彼らは自分たちが何をやっているかを知っていたし、それについて考えることができていた。しかし、それは彼らの関心の外側だったのだ。
関心の対象
ルドルフにとっては家族の幸福と仕事に貢献し成功することが関心の対象であり、ヘートヴィヒにとっては自分の理想的な生活を守り、所有欲を満たすことが関心の対象だった。だからルドルフは子供達に対しては良き父として接するし、単身赴任を引き受けてまで身を粉にして仕事に取り組む。ヘートヴィヒは居住空間を美しい花で飾り、雑草を抜き、理想の生活への努力は惜しまない。しかしルドルフが行っていることは虐殺であり、ヘートヴィヒが行っていることは略奪である。また、この関心の振り分けと選別を突き詰めたことが優生思想となり、ナチズムへとつながることを考えると示唆的である。
また史実としては、処刑されたルドルフに対し、彼女は80まで生き延びた。僕はこの事実に対して、どこか行き場のない憎しみのような感情を感じてしまうし、作品全体の演出意図からして、監督もそうなのではないかと感じているし、今回最も悪として描かれているのは彼女の持つ性質だと思う。
悪とは何か
では彼女は悪なのだろうか?現代の視点から、物語として消費するならば確実に悪役だ。 では、彼女を憎み、彼女に石を投げればいいのか?現代なら多くの人がそうするだろうし、彼女のSNSアカウントは炎上するだろう。しかしそれで何かが解決するようには思えない。本当にすべきことは、自分が彼女のようにならないためにはどうしたらいいのかを考えることだと僕は思う。
見方を変えてみれば、彼女は惨めだとすら思う。大量虐殺という多大な犠牲を払ってまで得た彼女の成功は、小市民的な中産階級の夢の実現でしかない。自分の欲を自分で見た鵜sことはできない。働いて社会に貢献し、お金を稼いで高級な服を買うこともできない。ず、だから欲しいものは旦那にねだるか、人から奪うしかない。また、自分のしたことの責任も取れず、夫を失い、その後の人生でも特に何もなすこともなく、どこかで死んだのだろう。そして後世に残ったのは悪名だけだ。
僕はそうなりたくなければ、彼女に何ができたかを考えるしかない。僕たちは彼女の立場に置かれた時に虐殺を止めることができたのか?そのために何ができたのか?単に物語として消費し、彼女を憎むことと比べると、この問いに答えることは難しい。
善への関心と他者への無関心
これを考える対比としては、映画の中でもアウシュビッツに収容される人々のために自らの危険を犯してもりんごを埋めるポーランド人の少女が登場していた。彼女は善に関心があり、それに基づいて行動したのだと思う。
このように、どんな状況下であっても、善であろうという意思で少しでも行動することはできる。しかし、彼女が埋めたりんごを取り合った収容所内の人々は、射殺されてしまう。異常な環境下では、善への関心、行動が実るとは限らない。しかし、持続的で健全な社会とは、そういった善であろうという関心で行動する人々の小さな貢献が、積み重なってできているように思う。
ヘートヴィヒに善への関心はなかったのか?現代で世間一般で共有されている価値観に基けば、善への関心はなかったといっても良いと思う。しかし、アーリア人の優生思想や理想の暮らしといった価値観に基づく選別に関心はあったように思うし、彼女の中でそれが善であったのだろうと思う。これを相対主義的に異なる価値観や善への関心の違いでしかないと考えるのはあまりに片手落ちすぎる。何がポーランド人の少女と彼女を隔てているのかということを明らかにしたい。
何よりも気になることとして、他者への無関心が挙げられる。まるで女王かのように振る舞うヘートヴィヒの生活は、他者の犠牲の上に成り立っているが、それを意に介していないように見える。また、彼女は子供達の幸福を語るが、実際に子供達とコミュニケーションをするシーンはほとんどない。子供達はほとんどの場合ひとり遊びをしているし、子供ですら彼女の関心の外であるように見える。ルドルフが転属になる際にも、自らの理想の生活が崩れることで動揺し、単身赴任を選択させた。その上、彼の”仕事”である虐殺の話にも興味がなさそうである。彼女は徹底して他者に無関心だった。
子供や妻とそれ以外と関心を明確に選別しているルドルフよりも、徹底して周囲への無関心を貫くヘートヴィヒの方が嫌悪感を催すのは、僕だけだろうか。
最後に
僕はこのテーマに関して、うまくまとめ切ることはできなかった。ただし、他者への無関心は善への関心と最も遠いところにあるように思う。今回考えて僕が掴んだヒントはそれである。かなり厳密なルールで考えれば、自分自身の影響の輪の内側にあるのに、無関心によって善を成さないことを、悪と考えても差し支えないように思う。