はじめに
ユク・ホイの宇宙技芸について考えていて、日本における宇宙技芸とは何かを考えた。日本における技芸とその関係を考える上で、そもそも日本人の精神性というものについて深く考えてみる必要がある。以下は、自分なりの雑多な思考の記録。
コア
前提として日々の生活こそが目的であるという精神性。 技芸の理想のために生活を用いるのではなく、生活への熟達として技芸をおくような考え方。
これは、地球規模の危機から、自身の心身への対処にまで通底しており、そこから繰り返しの改善と、定期的な断続、解放のリズム(ハレとケの往復)、根底にある無常感と諦観というものが浮かび上がってくるように思う。
世界観と精神性
日本人は、常世と現世のように、無常と永遠という矛盾を曖昧に受け入れている。現代人でも、何のてらいもなく生まれ変わりや循環的世界観を許容してポップカルチャーでも数おおく引用してされており、釈迦の解脱や、ニーチェの永劫回帰などのような重いテーマとは結びつかないように思われる。
この循環的な世界観が、ハレとケの往復として生活に組み込まれており、改善のループと解放のダイナミズムを生み出す。
日々慎重にコツコツ積み上げる堅実性と、大胆に壊れて刷新する祭礼的カタルシスを感じる狂気性を持つ。
この矛盾の許容力が、一即多、多即一的な個と全体を同時に捉える高度な精神性、団結力を生む。一期一会、一念三千、一球入魂など、瞬間に永遠が宿るという美学がある。ただし、平成を経て令和においてはこの辺の全体感はかなり下火になったように思う。
むしろ、仮初やものの哀れ、未熟さを好む、侘び寂びの文化、アニミズム的な精神性が復刻して、価値は広く共有されず、多種多様なものに個々人が魂や精神的な価値を見出す状態にあるように思う。
環境と文化
自然災害と外圧というプレッシャーが、前述の文化と共に、レジリエンスを育んできたように思う。
一つは地理的な状況、四プレートの結節点・環太平洋帯という地質学的条件がある。海と山に囲まれることにより、共同体文化が育まれ、恥や横に習うという倫理的文化が生まれた。
また、第一列島線という地政学的な状況とも関連して、ウチとソトの文化も育まれた。
他の文化を受け入れたり、お客を迎合する面と、突如として閉じこもり、独善的になる面がある。
基本的にはこの二面性が移り変わりは急であり、我慢と噴出という流れをとる。
近年では国家単位では、まさにアメリカと中国の狭間という地政学的な観点がホットトピックである。
倫理と哲学
絶対者、お上というものに対しては基本的には恐れと取引で対処する。共同体に関しては、基本的には同質性と恥の文化で連帯し、外部に関しては、歓迎と排除の二面性で対処する。
このある種の哲学のなさ、節操のなさは、無常を前提にした処世術でもある。一貫した理念を貫くよりも、矛盾を抱えてでも場を維持することを選んできた結果に見える。
ある意味では、場・関係・断続の繰り返しに対処する実践的な哲学と言えるかもしれない。この哲学や節操のなさがむしろ、突如として急進的に特定の思想を採用する土壌と言える。
お上への恐れと取引、共同体への恥に基づく同調、外部への排除が実現するとき、突如として独善的な一体性をうむ恐ろしさは、日本人自体も把握するところであると思う。
近年では西洋的な個人主義を経て、会社、家族、すらも外部となるような形で外部が拡大し続けてはいるが、外部には歓迎と排除の二面性、お上には恐れと取引で対処するという根っこの対処は変わらないように思う。
家族構成
伝統的には直系家族、近年は核家族が主流になっている。
西洋ではドイツなどと共通の文化的な土壌を持っており、西洋におけるドイツとアジアにおける日本は同様の役割を担うことが多い。この辺りはエマニュエル・トッドの分析がかなり的確で面白い。
技術
技術に関して、一つの軸としては、工芸という在り方。生活の道具に、実用性と美しさを両立させるという観点。 その他、近年のテクノロジーの文脈では、技術に関してはローカライズと最適化という内方向かつミクロ方向の性向があるように思う。この辺が脱成長と合わさって、全体として大きく成長してはいないが、改善はしているという状態を産んでいるように思う。
芸術
民芸運動、アニメ、ポップスなど、生活に近い部分で生まれた文化がジャポニズム的に対外的に評価される場合は多いように思う。自分達の芸に権威や高尚さを求める際には、伝統的な格や家、血筋など、かなりドメスティックな価値観があるように思う。そこへの反発やそもそも距離が遠い民間によって文化を輸入し、ローカライズと最適化を経た結果として、独自の形態として発達するケースが多いようにも思う。