はじめに

生活技芸というコンセプトは、形而上学でありながらも、実践哲学でありうると考えている。生活という日々の実践こそを目的とする存在を一つの全体観の中に位置付けることで、そのあり方を哲学として提示することを目指している。

そもそも日本的な精神性と技芸との向き合い方という観点で生まれた生活技芸というコンセプトではあるが、日本人には哲学が無いというような批判に対する反論になりうると考えている。

なぜ日本人には哲学が無いように見えるのか、そういう批判が生まれうるのかという点についての示唆、そこへの反論となり、また何らかの着想や指針を提供できたら幸いである。

実践哲学としての生活技芸論

実践哲学としての生活技芸論とは目的論である。

生活技芸論において、生活は日常的な意味において目的とされる。

この生活の為の手段が”術”であり、これは技と芸に分けることができる。

技とは生きるための術であり、持続・安定・効率・存在を目的とする術である。

芸とは活きるための術であり、断続・変化・無駄・意義を目的とする術である。

そして、技の目的である生と、芸の目的である活を合わせたものが、生活である。

ここで、この術を用いて生活を営む実体として、座を考えることができる。

技の形骸化と芸への転化

生きることを目的とする術である技は、座を持続し存在させるが、技はある局面において形骸化する。技によってむしろ座は目的としての生の意味を失うのである。この局面において、座は技を無目的に用いることによって、逆説的に生の意味を取り戻そうとする。ここで技は芸へと転化される。芸はもはや生を目的としない為に、生それ自体を前提として、ある種の契機へと開く。この局面で目的とされるのは活であり、活を目的とする時には生はその前提としての意味を取り戻す。こうして活によって再度意味を与えられた生は、再度その持続と安定の為の技を必要とする。この営みが生活技芸である。

ケとハレという局面

前述する座が技によって維持される、生の局面をケとする。そしてケにおいては技が用いられ、技が洗練されていくが、これは生と技を形骸化していく。ここで座は持続し、不可視化される。そしてこの技が形骸化した際にそれを芸として用いて生の意味を回復する局面をハレとする。ハレにおいては技は生を目的としない芸として用いられることで、生を活の前提へと転じることで生と技を再度意義化する。ここで座は断続し、可視化される。

生活技芸論の実践

生活技芸論は、技術に関する問いとして、一つの実践哲学としての側面を持つ。

生活を目的とする哲学として、技術にも芸術にも偏重することを戒め、どちらも術として日常的に用いることを求める。

  1. 生活こそを目的とする
  2. 技芸は生活の術として用いる
  3. 技を磨き、生を支える術とする
  4. 技を無目的に用い、芸として生に意味を与える術とする
  5. 座は芸でハレに開き、技でケを維持することで、生活をする

形而上学としての生活技芸論

ここまで目的論として述べられてきた生活技芸論は存在論でもあり、ここにおいて実践哲学というよりは形而上学としての側面を強くする。

座という実体

まず、生活技芸においては、あらゆる実体を座として考える。

座は主客が未可分の実体である。座が存在するという時、座は同時に主体的に他の座を客体として用いる場として現れながら、他の座の場に用いられる客体としても現れる。実体とはこの関係の連関において、固有の時空を持ち、主客が未可分なものとして存在する。つまり、座は関係付けられた実体である。

新実在論との比較

存在のメタファーとして、あるものが存在するとは、つまり何かのうちにあると考える方法がある。新実在論は、基本的にこのメタファーを用いており、存在するとはこの何かのうちにあるということであり、何かのうちにないものは存在しないとする。ここで何かをそのうちに存在させるものとして意味の場というものを考え、そこには実態があるとする。そしてその総体としての世界は存在せず、無数の意味の場があるとする。

新実在論は、空間的なメタファーであるために時間が後景化されている。ゆえに存在はスナップショット的であり、持続は考えない断続的な存在のみがある。また主体は場であり、客体は存在であるから、例えばコーヒーカップは写真に捉えられて、写真という場の中に存在することが出来るが、全てを捉える写真家は常に自らを捉えられない為に、総体は写真に収まる形では存在しないことになる。

しかし、生活技芸論においては、総体は自らを存在させる場として主客が未可分のままに存在する。厳密には、世界は自己撞着的な実体であり、客観的には常に自己を無化する主体としての場としてのみ現れる。例えるならば、もしここに全てのものが映った写真があるならば、それはその写真を撮った写真家の存在を暗に示している。つまり、全てを捉える写真を撮る写真家が、写真には映らないことでむしろその存在を示すとき、その関係まで用いた総体としての実体を捉えるのである。

このために生活技芸においては、まず存在に関して、空間だけでなく時間も含めた時空間的なメタファーで考える必要がある。空間とは時間における三次元の写真のようなものであるとするならば、むしろこの時間という写真家を含めずには当然総体を語り得ないという考える。

例えば、あるものが存在するとはある瞬間に空間においてあるというよりはむしろ、ある時間にある空間において持続していることだと考える。この時に、時間も空間とはどちらかが主であるときにどちらかが客になるような場である為に、この両方を捉える為には主客が未可分のままに扱う方法が必要になる。ここで、実体とは時空における占有として、主客は未分化のまま関係のうちに存在すると考える。この時空における実体を座と呼び、形而上学としての生活技芸が扱う対象は、この座である。全は一であり、一は全であるという時、ここで同定される対象こそが座であり、総体も含め、無数の座が実在している。

座の実体と関係の様態としてのケとハレ

例えば、コーヒーカップの写真を2枚続けて撮ったとする。

ここで、この2枚の写真においてコーヒーカップはそれぞれ写真という場の中に客体として存在している。ここで別の写真の二つのコーヒーカップを同一だと見做すのは当然のことのように思われる。別の時点だとしても、このコーヒーカップは変わらずにそこにあり、写真に撮られたのであるから。この時、コーヒーカップは持続している。

ただ、ここで地震が起きて、机からコーヒーカップが落ちて割れたとして、そのコーヒーカップを移した写真があるとする。柄の模様などで同一のコーヒーカップであること言うことが出来たとしても、その在り方はもはや持続していない。ここにおいてコーヒーカップが同一であるとも言えるし、別物だとも言える曖昧な状態がある。

前者の様な持続の関係をケの様態にあるとする。これはある瞬間における空間の占有が続くことであり、実体の客体としての現れである。後者の様な持続が断ち切られた破れの関係、曖昧な状態をハレの様態にあるとする。これはもはや空間を異なる形で占有しているし、区別の必要がある。

現在、同じコーヒーカップを捉えた3枚の写真があるが、これらを関係づけることによって、コーヒーカップという座が時間的な関係において、ケとハレの様態を取ることが明らかになる。

仮にここで、ついでにもう一枚写真を撮るとしよう。4枚目の写真には、割れたコーヒーカップが映るが、ここでは割れたコーヒーカップはそのあり方を持続しているのであり、ケの様態である。

つまりは、ケとハレは何らかの実体を維持しながらも、形態ではなく関係において現れることがわかる。

まとめると、このコーヒーカップという座は、異なる形態においても何かを維持し、それゆえに各形態の間に関係を結ぶことができ、その関係は持続と断続の面を持つ。ここで維持されている何かのことを実体と呼ぶのである。

座の主体性と客体性

ここで関係の中で維持されるのがコーヒーカップの実体であるけれど、この実体には主客が未可分である。

つまり、実体は持続と断続の様態を超えてコーヒーカップを関係づけるのであるけれど、写真はあくまでこのコーヒーカップのスナップショットであり、映るのは客体化されたコーヒーカップである。しかしこのコーヒーカップにおいて前提のように無化された同一性、ここにコーヒーカップの主体性がある。この主体としてのコーヒーカップは、自らをコーヒーカップとして客体化しており、ゆえに自らの時空に主客が未可分の固有の現れの場を持ち、そこに実体として存在するのである。だからこそ、我々は割れていようがコーヒーカップの同一性を語ることが出来るのである。

ここでそもそもコーヒーカップに主体性を前提するのに違和感を感じるかもしれない。しかし、主体性とは意思ではなく、固有の場を開いて客体を存在させる働きである。そもそも意思や意識が主体性であるのは、それが何かを用いるからではなく、何らかの場として、客体をそこに存在させるからである。用いるのはその結果であり、我々はだからこそコーヒーカップを客体化できるのである。もしそれをどう用いるかが問題であるならば、じゃあコーヒーカップが地震の揺れによって落ちて割れた時に、揺れた建物かもしくは地球には主体性を見出すことになるし、子供がコーヒーカップが自分で落ちた。と言ったとしても、それを笑えなくなる。

そもそも我々の様な存在がいなくても、コーヒーカップは割れるのだから、結局はそこでどこに主体性を見出すのかこそが、哲学的な線引きである。私はここでコーヒーカップの実体が、主体的に自らコーヒーカップとしての自ら現れる場を持つと言っているのである。

そして私はコーヒーカップの連続性を同定する上で、このコーヒーカップの主体性に根拠を見出し、それはコーヒーカップの客観的な形態も、私とコーヒーカップの関係も常に変化しうる為に、そこには根拠がないと考えているのである。

こうしてコーヒーカップが主体と客体が未可分としての実体を見出すことができ、コーヒーカップを一つの座として考えることが出来る様になった。そして、どんなものでもそれがそれ自体として存在しうるあり方である主体性を持ち、それを特に人間や意識固有のものだとしないという立場が明確になった様に思う。

そしてここまでコーヒーカップを使って明らかにしてきた実体こそが、生活技芸における総体としての世界を存在すると述べる根拠である。つまり世界も実体であり、それ自体がそれ固有に自ら現れる場を持つ。ただし、世界にはコーヒーカップと明らかに異なる点がある。それは客体化を免れるという点であり、つまり写真に収めることは絶対に出来ないという点である。ただし、主体的に世界としての自ら現れる場を持つがゆえにその客体化を無化する点にむしろ、世界には主客が未可分であり続ける座としての純粋性がある。故に世界は常に変化し、とらえようもない無常として現れる。しかし実体としては、だからこそ主体的に自らを無化するという方法で存在していると考えるのである。ここに、世界の実体がある。

つまり、新実在論は意味の場により実体を客体的に述べるものであるから、世界を客観的に存在しないとする。しかし生活技芸論は世界は主客が未可分なあり方として、つまり一つの座として、実体として存在すると考えるのである。

また、生活技芸論においては、意味の場も存在もどちらも等しく座であると考える。つまり、座はその用いられ方によって、主体的な場として、客体的な存在として、捉えられるのである。

座という実在とケとハレという時空における様態

前節で新実在論と対比しつつ、コーヒーカップと世界を例にとって、座の実体としての様態が関係においてケとハレを取ること、主体としての存在と客体としての存在の二面性があることついて考えた。

座の存在とはそれ固有の時空におけるものである。つまり、何かのうちにある必要もなく、時空において関係付けられることで成り立つものである。ここで、持続であるという時に座はケの局面にある。つまりある座は技を用いて自らを持続させているのである。断続であるとき、ハレの局面にある。ここでいうケとハレは、単なる時間に関する表現ではなく、時空においての表現である。なぜならば、ある時間における空間的なあり方が問題とされているからであり、時点においてケとハレを述べることはできない。

つまり、座とは時点ではなく時空において実体として存在するものであり、主体的に技という持続の術を用いることで、ケの局面を維持しており、主体的に芸という断続の術を用いることで、ハレの局面へと破れる。ここでいう技と芸は術として抽象化することができ、世界が用いるのは術であり、技芸のどちらかと同定することはできない。つまり世界という座は自らに対して技芸ではなく術を用いているのであり、座がケとハレを同定するのは他の座との関係によることである。つまり、座が他の座を自らの持続のために用いればケの局面であり、自らの断続のために用いればハレの局面であり、それらの関係こそが世界の総体を作り上げている。

ここで座が主体であるとはどういうことかを考える。主体である座は、実体として他の座との関係づけを行うが、それは同時に客体として他の座に関係付けられることでもある。しかし、座が主体であるということは自らを客体化しないということであり、むしろある座と一体となりまたそれを暗に無化している状態であると考える。つまり、ある座が自らを客体として扱うときに初めて、主体としての自らが背景として現れるというある種の矛盾があり、この主客の構造に関する洞察が、全と無である全体への洞察へとそのまま用いることができ、その契機においては主客が未分化された、全体観として、世界観としての座がそこにある認識が生まれる。しかし、当然これもケとハレの往来によって破れるものであり、また客体として述べることは不可能である。ここに世界を語る難しさがあるにせよ、それを試みることは以前可能であり、それはむしろ語りよりも一つの在り方として現れると考えており、そこに生活技芸が形而上学でありながら実践哲学として意味を持つと私は考えている。

倫理としての寓意

座が自らの生の維持を目的として他の座を用いるのが技であるならば、逆に贈与と余白の様な形で、自らを開くことで活を取り戻すのが芸であり、これは他の座との関係において、主客と技芸が対照的であるということを意味する。つまり、主として技を用い続ける座は、形骸化して瓦解することで、むしろついには芸として自らを捧げることになる。このような術におけるある種の関係の法則が総体としての世界を作り上げており、これは客体としては無常でありながら主体的に常である世界についても自己撞着的に同様の構造がある。

そうだとするのであれば、主客と技芸、全と無における総体としてのあり方から、個別の座のあり方について何らかの示唆を得ることは可能であり、生活技芸がある倫理としての寓意を持っていると私は考えている。

あとがき

技としての思考という術が、芸となる世界における、芸としての思索。

生活技芸論は、ユク・ホイの宇宙技芸への日本における応答でもある。自分が技術者としてのバックグラウンドを持つものとして、加速主義、トランスヒューマニズム、テクノリバタリアニズムとは異なる、技術への問いへの応答をする必要にかられて、日本における技術の位置付けを行うことを企図している。また同時に西洋哲学における総体の喪失と虚無主義の台頭を前にして、マルクス・ガブリエルの新実在論を前提に、ある一つの総体を語る一つの形而上学の技芸としての提示を意図した応答でもある。大きな物語が失われ、総体としての世界を述べることが不可能になってしまう時代においてもなお、むしろ個々の生活のためにこそ、それを語る哲学が必要とされており、実際に自らのためにそれを語る方法はあらゆる文化において可能であると私は考えている。ただし、その総体の語りは決して啓蒙的に押し付けられるものではなく、それが多層に重なる多極的な局面において、異なる総体に関する語りを、排他的ではなく包摂し合い共に語り合うことこそが、危機を乗り越える方法であると考え、この生活技芸論を述べる。希望を述べるのであれば、この語りに触発されることで別の語りが生まれ、唯一の総体としての世界の記述ではなく、人々の生活を支える多様な総体の議論が、異なる文化において取り戻されることを願う。